全年齢版 第4世代高次元因果再構成体観測装置『Alice-Genesis(アリス・ジェネシス)
2026年6月。琉球の陽射しは、逃げ場のないほどに強烈だった。
国立琉球大学の一角に立つ「量子因果律究明センター」。通称「(Q-CAE)」。
比嘉玄武教授が掲げた「比嘉の境界(量子多世界干渉論)』」という理論の体現——第4世代高次元因果再構成体観測装置、『Alice-Genesis(アリス・ジェネシス)』が、その銀色の威容を誇っていた。
この日のために用意された観客席には、政財界の重鎮、名だたる物理学者、そして投資銀行CEO中出征一郎の招きを受けたマスコミや芸能人、スポーツ選手たちが、まるでオペラを待つ貴族のように華やかに並んでいた。
その熱狂の中、18歳の原見汐音助教授は、ただ一人、静寂の中にいた。
彼女の白衣の下では、心臓が狂ったような音を立てている。だが、彼女はそれを「科学への高揚感」だと自分に言い聞かせていた。
「準備はいいか、汐音」
比嘉の声は、慈愛と支配が混ざり合った、歪な響きを持っていた。
「ええ、比嘉教授。全ての演算は完璧です。……
中出征一郎が満足げにシャンパングラスを傾ける。
「いいぞ、汐音君。この実験が成功すれば、人類の歴史は書き換わる。中出グループは、君の『偉業』を全面バックアップするぞ」
「お姉ちゃん、今日のメイク最高! マジでイケてるって!」
汐音の妹、金髪の麗華がスマホを掲げて駆け寄ってくる。彼女の無邪気な笑顔は、汐音の張り詰めた神経を少しだけ解いた。
「……ありがとう、麗華。絶対に、成功させるから」
その時、汐音の肩に、温かい手が置かれた。恋人であり、格闘技 金メダリストの星科大海だ。
「汐音。……もし少しでも不安なら、今すぐ中止してもいいんだぞ。俺はお前の成功なんてどうでもいい。ただ、お前が笑っていてくれればそれでいいんだ」
大海の誠実な言葉に、汐音は少しだけ寂しげに微笑んだ。
「……ダメよ。これは、詩織おばちゃんとの約束なの」
実験台の上に立つ、中出詩織が、優しく汐音を見守っている。
「汐音、あなたの進んだ道に間違いはないわ。……科学は、きっと人を幸せにするためのものなんだから」
——だが、そのとき汐音は気づいていなかった。
会場を埋め尽くす数百の瞳が、詩織の存在を強烈に「固定」しようとしていることに。静かな実験室での成功とは違う、欲望と好奇心が入り混じった「観測」の奔流が、いま、詩織という人間の量子状態を押し潰そうとしていることに……
会場に集まった物理学の権威たち、クローン再生技術の第一人者マクシミリアン教授も含む世界的な研究者たちが、固唾を飲んで新型Alice『Alice-Genesis』を見守る。
しかし、その熱狂の渦の中で中出幸一郎だけは、母である詩織を見つめ、全身に走る悪寒を抑えきれずにいた。
(……おかしい。母さんの鼓動が、機械の演算音と共鳴して……消えようとしている?)
(進行役はステージ中央へ歩み寄るような仕草で、空中に向かって朗々と語りかける。)
「――ご列席の皆様、本日は『量子因果律究明センター』の公開実験へようこそ。
今夜、皆様が目撃するのは、歴史の教科書を白紙に戻す、奇跡の瞬間です!
天才・原見汐音助教授と、量子物理学の巨星・比嘉玄武教授が到達した『比嘉の境界』。
これまで物理学が『不可能』と切り捨ててきた領域を、我々はついにその手に収めました。
……ご覧ください、あの中央にある装置『Alice-Genesis』を。
これは単なる機械ではありません。空間という名の布地を折り畳み、因果という名の糸を意のままに操るための、現代の『神の織機』です。
今から行われるのは、量子テレポートによる空間置換のデモンストレーション。
被験者である中出詩織様の量子状態を瞬時に分解、転送、そして完璧な形で再構成いたします。
痛みなどございません。失敗などありえません。
装置の演算精度は、既に数千回の実験で証明済み。我々が用意したのは、数学的証明に基づいた『絶対的な安全』です。
皆様、瞬きをしないでください。
今この瞬間に、私たちは『遠い未来』へと踏み出すのです。
私たちの目の前で、この場所から、詩織様が消え……そして瞬時に、別の座標から現れる。
物理学が魔法を超越し、神の奇跡が日常となるその瞬間を、その目に焼き付けてください!
「実験開始。座標置換、シーケンス・ゼロ!」
汐音の指が、因果の糸を弾くようにコンソールを叩く。進行役が続ける。
さあ、カウントダウンと共に、因果の境界を超えましょう!
……3、2、1……観測開始(イニシャライズ)!!!」
このアナウンスを聞いて、観客たちは皆、シャンパングラスを掲げて『ブラボー!』と叫んだ。
――この熱狂こそが、この悲劇の『燃料』だった。
『Alice-Genesis』が、喉を鳴らすような低い駆動音を上げ、会場全体が物理的な振動に包まれた。
「成功した……!?」
会場が歓喜の声を上げようとした——その瞬間だった。実験装置が悲鳴のような高周波を上げた。
「……計算が、合わない? ……比嘉教授、これは……ッ!?」
汐音の顔から血の気が引く。理論上、絶対安全であるはずの汐音の絶対理論『グレイプニル・セオリー』が、まるで生き物のように歪み、計算値を書き換え始めたのだ。
「何をしている! 止めろ、汐音! 今止めたら因果が逆流するぞッ!!」
比嘉が叫ぶが、その声には、自分自身の理論が崩壊する恐怖が混じっていた。
「無理……! Alice-Genesisが、制御を拒否している……ッ! 詩織おばちゃん!!」
ボックスの中の詩織が、まるで水彩画に水をこぼしたように滲み、境界線が消失した。再構成されるはずのデータは霧散し、詩織という存在だけが、この三次元空間から「抜き取られる」ように消えた。
爆音も閃光もなかった。ただ、世界が「透明な虚無」に塗り替えられた。
ただ、詩織の座っていた場所に、たった一つの「十字架のイヤリング」だけが、冷たく金属音を立てて転がり落ちた。
何が起きたのか。高名な物理学者たちは、その現象を数式に当てはめようと試みたが、導き出されたのは『不可知』という名の黒塗りの数式だけだった。
「……計算は、合っていたはずなのに」
汐音の声は、あまりに小さく、誰の耳にも届かなかった。
会場が混乱の渦に飲み込まれる中、大海だけが逸早くそのイヤリングを拾い上げ、カメラのフラッシュが狂ったように焚かれる中、呆然と立ち尽くす汐音の腕を掴んだ。
「……汐音、逃げろッ!!!」
「汐音、何も考えるな! このまま行けば、お前は一生『人殺し』として吊るし上げられる! 逃げるんだ!!」
「……うそ、そんな……計算は、合っていたのに……ッ!」
その日、世界で最も輝いていた天才・原見汐音は、その輝きごと地獄の淵へと叩き落とされた。
彼女が手に入れた『知性』という名の武器は、彼女自身を、そして愛した者を破壊するための刃に過ぎなかったのだ。
「……ゾッとするね。
彼女が目指した『神の領域』は、実は彼女の想像を遥かに超えた『悪意ある深淵』だった。
人間が、自分たちの視線で愛する人を消し去ってしまうなんて……こんな残酷な喜劇、他にないだろう?
……この後、汐音は逃亡者として、そして『叔母殺し』の汚名を背負った科学者として、比嘉という名の檻の中でどのような研究を続けると思う?
彼女はもう二度と、あんな無邪気な実験など出来ないはずだ。
彼女に残されたのは、償いなのか、それとも、失った詩織を取り戻すための『呪われた実験の再開』なのか――ッ!!!
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