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ディヴィッド・ローゼンバークの肖像

使用したAI その他
傷とは根本的な不一致であり、欠如と欲望の最たるものである。
しかし、傷は恩寵の証であり、傷こそが生成の根拠となる。
何もない場所から聞こえる夜の騒めきのように、傷口は絶えず活動し続けている。
耳を塞いでも、他の音でかき消そうとも、その声は止むことがない。

David, A Rosenberg. 1916-1976
ドイツ系ユダヤ人の父を持ち、コロラド州フォート・コリンズに生まれる。幼少期から町医者の父親に憧れ、1934年、コロラド州立大学医学部に入学。入学当初は内科を志望していたものの、友人のハミルトン・ウッドマン(1915-1944)の影響から精神分析に傾倒。専攻分野を精神医学に移す。1940年、コロラド州立大学卒業後、イェール大学のニール・E. ミラーのもとで精神分析の研究に従事する。
戦後はミラーの推薦を得て、チューリッヒのユング研究所に留学。5年半滞在ののち、帰国。帰国後、スタンフォード大学で講師として勤務しつつ、第二次世界大戦の兵士らのカウンセリングを行っていたものの、1952年6月発狂。山の中に籠り、半年もの間発見されなかった。発見されたローゼンバーグは顔に大きな切り傷があり、おそらく自傷したものと思われる。また、検査の結果、脳梁及び左脳の損傷が見つかった。
その後は故郷のフォート・コリンズに戻り、療養する。そのころより、幻視やうわ言の回数が頻繁になった。予言を的中させることもあり、一部の町民からは宗教家として崇められていたが、小説家である甥のアンドリュー・ローゼンバークの日記には「叔父は見るに耐えないほど変わり果ててしまった。以前の叔父は誇り高く正義感に溢れる医師であったが、今では薄汚く好色なペテン師となってしまった」と記されている。
この療養時期(1952-1958)に書かれた日記や幻視の記録が『傷口(The Wound)』である。この書はディヴィドが76年に甲状腺がんで亡くなったのちに甥のアンドリューらが編纂したもので、80年に発売された。当初は生前のディヴィッドをよく知るものに配ることを目的とし、200部しか刷っていなかったものの、同じファーストネームであることに興味を持ったディヴィッド・ボウイに紹介をされたことで、人気となり、ニューエイジ思想家たちに広く読まれることになった。

※この話はフィクションです。

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