自作小説「想霊日和」第三話 『ユガミヒト その一』
「……まずはこれから始めてみましょうか」
そう言って、所長――神崎詩音(かんざき しおん)はコンビニ袋を取り出した。中から出てきたのは、場違いなほどに無邪気な玩具、シャボン玉セットだった。
「え?」
月岡詠士(つきおか えいじ)は思わず声を漏らす。
「昨日、詠士さんが受けた攻撃も“想霊術”です。ただし、人間は想霊体のように直接危害を加えるような想霊術は、それほど多くは使えません。私たちは“道具”に霊気を纏わせて行使します」
所長はシャボン玉のスティックを口元に運んだ。息を吹き込むと、泡が一つ、ふわりと浮かぶ。
だが、その軌跡は尋常ではなかった。
シャボン玉が、ありえない速度で室内を縦横に飛び回った。壁ギリギリ、天井すれすれ。人の意志で操っているとしか思えない。そして詠士の目の前まで飛来し――ぱちんと割れた。
「わっ……目にしみる!」
「このシャボン玉には、“動け”というわたしの意志を乗せた霊気が流れています。凛の“防霊帯”も、これと同じ要領ですね」
「なるほど……」
詠士はうなずきながら、道具を受け取る。スティックに息を吹き、シャボンを膨らませた。
ふわりと漂ったそれは、偶然にも凛の顔面近くで破裂した。
「いった!! しみる!!」
「えっ、すみません!!」
「バッカじゃないの!?」
凛の平手が、詠士の頭に叩き込まれた。
「家でも練習してみてくださいね」
所長はくすっと笑う。
「……ポケットに、しまっときます……」
詠士は少し気まずそうにシャボン玉セットを胸ポケットに滑り込ませた。
⸻
掃除を終えた夕方、所長がふたりに声をかけた。
「今日はもう、予約も入っていませんし……おふたりとも、上がって構いませんよ」
「ラッキー」
凛がジャンパーを引っかけて立ち上がる。
「ありがとうございました。お疲れ様です」
詠士も頭を下げた。
事務所を出る二人、六月の湿度の高い空気が肌に吸い付く。
「……あんたも、こっちなのね?」
「駅までですけど」
夕陽がビルの影を引き伸ばしていた。
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「凛さんって、何歳なんですか?」
「……あんたの一個上。大学二年」
「なるほど。……ちなみに、所長の年齢って――」
「えー、知らないの? 噂だと四十くらいらしいよ」
「えっ!? 見た目、二十代後半ですよ……?」
「だよねー。うちも最初そう思った」
詠士が笑いかけたそのときだった。凛の足がぴたりと止まる。
⸻
「……ん?」
彼女が、進行方向を指さす。
「……妖怪か?」
「どれですか?」
「……あれ」
街路の先。人のような影が、じっと立っている。だが、その輪郭は揺らいでいた。空気に馴染まない。異物。通行人には見えていないようだ。
「うーん……めんどいけど、道変えるか」
「そうですね」
ふたりは右へ曲がる。住宅地に入る細道。夕焼けが赤く、眩しかった。
⸻
――その瞬間。
「……はい?」
詠士の肩が叩かれた。
咄嗟に振り返る。だが、そこには誰もいなかった。
(……なんだ?)
妙な胸騒ぎと共に前を向く――
「………………あれ?」
凛が、いない。
ほんの数歩、前を歩いていたはずの彼女が、影すら残さず消えていた。
「凛さん……?」
呼びかける声が、空気に吸い込まれていく。誰も返さない。
詠士は歩き出す。周囲の景色がどこかおかしい。
住宅街。人影。街灯の明かり。どれも“正しすぎる”のに、不自然だ。
道が、まっすぐすぎる。どこまでも一直線。右も左も曲がり角が存在しない。
後ろを振り向いても、やはり一直線。
(……これ、あれ?....)
だんだんと喉が渇いてくる。音も風も、沈黙の奥に吸われていくようだ。
歩く。立ち止まる。だが、景色は一切変わらない。同じ表札、同じ瓦、同じ歪んだ電柱の影。
(凛さん、どこに……)
そこで、ふと気づいた。
夕陽が自分の影だけを落とさない。
「ちがう……俺が、いなくなったんだ」
凛が消えたのではない。自分の方が、“正しい場所”から、外れている。
声にして初めて、その現実が重く胸にのしかかる。
足が重くなる。喉が鳴る。けれど、身体はまだ正気だった。
(落ち着け、落ち着け……)
――そのときだった。
“視線”を感じた。
鋭く、湿り気を帯びた圧が、皮膚の裏側を撫でてくる。ぞっとする感覚。
詠士はゆっくりと振り返る。
そこに“いた”。
足の長さと同じほど地面まで下がった腕。肩と首の境界が曖昧な、繋がった頭部。灰色の皮膚。縦長に裂けたような目。
異様なまでに静かに、こちらを見ていた。
吸い込まれるように目が、合う。
――“それ”が一歩、前に出る。
詠士は一歩、下がる。
すると、“それ”は――
にやりと、口を吊り上げて笑った。
人間の笑みとは、似て非なるもの。
そこには意味がなかった。
ただ「笑い」という形だけを、真似しているような――。
「……!」
反射で背を向け、走り出す。無我夢中で走る。
どこまで行っても、同じ家。電柱。瓦。空気だけがじっとりと肌にまとわりついてくる。
背後から、異様な走る音が聞こえ始めた。
べしゃっ……べしゃっ……
まるで、関節のない肉が地面を這うような足音。
詠士の息が切れる。
「ッ……!」
足が、もつれた。
「うわっ!!」
転倒。アスファルトに叩きつけられる。手のひらが焼けるように痛い。
ポケットから、何かが転がり落ちた。
――シャボン玉セット。
地面に液が広がっている。
夕日に照らされた長い影が、にじり寄ってくる。にやけた口が割れ、濁った目が細められる。
詠士の全身が、ひとりでに震えていた。
足が動かない。声も出せない。目の前の存在が“人間ではない”と、理解しているからこそ逃げられない。
(見えるだけじゃ、何もできない……)
これまで無視してやり過ごしてきた“幽霊”とは違う。
恐怖は今、現実としてそこにあり、襲いかかってくる。
息が浅くなる。心臓が乱打する。逃げたい、けれど動けない。
(誰か……誰か、助けて――)
詠士の右手が、シャボン液に濡れていた。
(……あ)
ほとんど反射だった。
(.......これだ!!)
右手で輪っかを作り、口に近づけ、息を吹いた。
「っ……動け!!」
詠士の叫びと共に、手からシャボン玉が放たれた。
ふわりと浮いたそれは、不規則に揺れながら、“それ”の脇腹へと滑るように向かう。
(頼む……届け……!)
空気が張り詰める。世界が静止したようだった。
“それ”の眼がシャボン玉を見据える。
怖い。身体はまだ震えている。心臓が喉まで競り上がり、今にも倒れそうだ。
けれど、あの化け物に背を向けたままでは、何も変わらない。
(俺は……“見えるだけの人間”で終わりたくない)
たとえこの一撃が通じなかったとしても、逃げるためじゃない。誰かを待つんじゃない。
(自分の手で、終わらせる)
詠士は足を踏ん張り、全身の震えを押さえ込んだ。
――直後。
シャボンが“それ”に触れ、静かに――弾けた。
乾いた音とともに、皮膚が内側からめくれ上がり、円形の傷口から霧のように霊気が噴き出す
「……ギィ、ァァァ……ァ゛゛ァ゛ァァ……」
喉の奥を搔きむしるような声。ひとが喋るにはありえない発声器官で、何かを真似しているかのような呻き。
体の一部がシャボンと共に霧のように吹き飛び、“それ”の輪郭がぐにゃりと歪む。形が崩れ、霊気で構成された体が不安定になる。
詠士は、ただ立ち尽くしていた。
(……やった!.....今のが、“想霊術”?)
本能的に、シャボンを“撃った”。
(俺にも使えた!!)
それは確かに――詠士の“意志”だった。
だが、詠士の目の前で、霧状になった霊気が再びまとまり始める。抉れた箇所が粘膜のように再生され、“それ”の形がじわじわと戻っていく。
詠士は――動けなかった。
(倒した……いや……違う)
体が震えていた。
勝利ではなかった。撃退でもない。
ただ「押し返しただけ」だと、全身が理解していた。
(あれは……まだ動ける)
たった一撃で何かが変わるほど、あれは甘くない。
――俺は、戦っているんだ。
まだ、“敵”がこちらを見ている。
スペシャルサンクス
とんとんとん様
https://www.chichi-pui.com/users/user_T88yuXxCZn/
昔に趣味で書いていた小説をアップさせていただきました。
完結はしていませんので続くを書いていきたいと思っています。
日曜日と木曜日の23時に投稿できたらいいなって思っています。
コレクションはこちら
https://www.chichi-pui.com/dashboard/collections/997693aa-a312-4f55-81e7-19e6d840fb41/
呪文
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