7月27日は太閤検地が始まった日
6月2日の本能寺の変、その直後の中国大返し、6月13日の山崎の合戦、6月27日の清須会議。
この1か月の間で秀吉の立場は『大名の家臣』から『天下統一の第一人者』へと大きく躍進しています。
そんな秀吉が開始したのが『太閤検地』です。
7月8日(1582年7月27日)に近江で実施された検地が太閤検地の始まりとされています。
検地を最初に実行したのは北条早雲で、新規に獲得した領地を把握するためのものです。
土地調査は課税のためには欠かせないモノでしたが、私有地である荘園への調査は大きな抵抗を伴いました。
(いわゆる不輸不入の特権)
新興勢力である戦国大名は土地の既得権益者を実力で排除するのが基本方針で、こうして自勢力に組み込んだ土地は調査した農業生産高に基づく課税台帳(検地帳)として整備されていきます。
秀吉の開始した検地は織田信長の政策を引き継いだものですが、その範囲が全国に及ぶという点が大きな違いでした。
また課税の対象を土地の所有者ではなく耕作者としたのも従来とは大きく異なる方針で、これによって中間搾取者が排除されて耕作者は直接領主に納税することと定められます。
無論実際に徴税を実行する代官は領主とは別に存在しますが、彼らは領主から家禄を支給される雇われ者であり基本的に耕作者からの中間搾取は認められません。
これは奈良時代から続いた荘園制が全廃されることを意味しており、中世から近世へと移行する明確なターニングポイントと見做されています。
太閤検地におけるもう一つの重要ポイントが、「石高の明確化」です。
全国一律の基準で土地高の査定がなされたことで各地の領主の規模が『石高』という形で数字化され、これまで土地の広さで何となく把握されていた領主の格付けに明確な基準が生まれています。
なお太閤検地では石高の査定は厳格化されていましたが江戸時代になるとある程度の『サバ読み』が黙認され、家の格を誇示するために石高を実測値より高く公表したり逆に低く公表して領民の負担を抑えるといった方針が各地の大名によって打ち出されています。
それにしても清須会議の直後にこのような大規模な検地を秀吉が始めたのは、なんとも恣意的なものを感じます。
既に全国統一を見据えていたというのもそうですが、秀吉にとって始まりの風景である農村へと足を運ぶ合理的な理由を付けることが出来る太閤検地は丁度良い息抜きになったのかもしれません。
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