山吹の里
一枚目がi2iでTOPAZ生成した完成画像、二枚目が素地としてHALOで
生成したオリジナル画像。
HALO→i2i→TOPAZ手順です。
道灌に山吹を差し出す娘紅皿のイメージで制作、派手な着物や髪飾りは場にそぐわないので不採用
にしました。ただ実際には跪いて平伏し、扇の上に枝を載せていたようです。
この逸話を読まれた皆さんはどう思われたでしょうか、私は不条理な違和感を強く感じ、合点が
いきませんでした。理由は、
貸し出せる蓑すら無く、普通なら無学文盲な貧農の娘が、「後拾遺集」の古い和歌を知っていて、とっさに
そのような機転を利かせ、わざわざ扇の上に山吹の枝を載せて差し出すという、下手をすれば仕置きを
受けかねない挙措で領主の知識を試す、というような事をするだろうか?
という点です。
それで少し調べてみたのですが、意外な事実が判明しました。彼女「紅皿」の父親「高畠三左衛門」は、
この地(現在の荒川区)に居を構えた土豪すなわち小豪族だったのです。ですから蓑を貸せないとは考えにくく、
更に道灌は幼少時から足利学校に学び、若くして文武に優れている事が広く知られた武将でした、
無学で粗暴な人物ではないと伝わっています。
この逸話は非常に有名で、落語のネタや、歌舞伎の演目となり、現代に受け継がれ、現地には銅像も
あるのですが、これを一般受けする英傑談であり、作り話だと割り切るのは簡単です。
ウィットに富んだ対応が面白い美談という事で、あまり詮索するのは無粋かもしれませんが、
更に調べていくと、後述する新たな史実が出て来ました。
さて、ここから先は私個人の妄想推理なのですが、仮にこのエピソードが実話だったとしましょう。
先程述べた、貧しい娘の正体は歌集に目を通すような環境に恵まれた豪族の娘だった点も踏まえ、
辻褄を合わせると、こういう説はどうでしょうか?
無言で山吹を差し出したのは、彼女の魅力をアピールする為のパフォーマンスであった。
父親の三左衛門が企てたのか、歌道に通じていた彼女が思いついたのかは定かではありませんが、
道灌程の人物なら山吹の花の意味するところに気付いて娘に興味を抱き、村里に埋もれさせておくのは
惜しい才媛として城に招き、身近に置きたいと考え、あわよくば側妾となれたなら玉の輿、高畠家も安泰
というような、道灌に取り入る為の一計を案じたのではないでしょうか。
運悪く道灌がその場で気付く事は無かった為、表面上の事の経緯だけが面白おかしく伝わってしまった
ものの、後に当代屈指の歌人とまで言われるようになった道灌は、娘「紅皿」を城に招いて歌の友とし、
道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、彼女の死後その地に葬られたという話が伝わっており、
紅皿の墓と呼ばれる碑が、今も新宿区に残っています。
夫の没後、尼となるのは当時の慣習としては一般的なものですし、二人の関係性は推して知るべし
です。あの芝居じみた行為は、見事功を奏したと言っていいのかもしれません。
呪文
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