レースアンバサダーの主張
レースアンバサダーって、何のためにそこに立ってるんですか?
はい、撮られるためです。
レースを観に来たつもりが、いつの間にか“被写体コンテスト”ですよ。
ピットの前には、マシンを狙うカメラよりも、
女の子をローアングルで舐め回すレンズのほうが多いって、どういうことですか?
しかも、その構図。
見上げるカメラマン、いや小僧、そして、それを見下ろすレースクイーン。
――これ、誰が“上”で誰が“下”か、ハッキリしてますよね。
位置はこうでも、立場は逆!
無言のメッセージです。
「君は美しく立っていればいい、こっちは好きに撮るから」って。
本人の人格も意志もそっちのけ。
**「シャッター音こそが支配の証」**みたいな顔して、
カメラを構えるわけです。
挙げ句の果てには、SNSで「今日の収穫」とか言って画像を貼って、
“どれだけいい女を撮れたか”を競い合う世界が、そこにはある。
……それ、レースの応援ですか?
それとも、女性の品評会ですか?
「撮らせてくれるからいいじゃん」って?
「仕事なんだから当然だろ」って?
その言葉、全部ひっくるめて「構造的な搾取」って呼ぶんです。
笑顔の裏に、「撮られることが前提の存在」が固定されていることこそ、問題なんです。
そう、“レースアンバサダー”という制度は、
ただの衣装や名称の問題じゃない。
それは「見る側の特権」を当然視する社会の鏡なんです。
私たちにカメラを向けるとき、
その先にいるのは“人”ですか?
それとも“被写体”ですか?
最後に本音を言います!
私たちには1円にもならないサーキットに来るな!
私たちを撮りたいなら”撮影会に来い”
呪文
呪文を見るにはログイン・会員登録が必須です。