民泊
案の定、夜になると廊下にざわめきが広がった。笑い声、足音、キャリーケースの車輪の音。深夜二時を過ぎても続く。 私は管理会社に苦情を入れた。だが返事は奇妙だった。「センサーには異常なし。宿泊者は一組だけです」。 それでも、私たちは確かに聞いた。複数人の声、廊下を通り過ぎる気配。
ある晩、騒ぎがひどくなった。私は廊下に出て、隣の部屋のドアを睨んだ。中から笑い声がする。だが翌朝、管理会社から「昨夜は誰も泊まっていません」と告げられた。清掃済みで、鍵も返却済みだという。 では、あの声は誰のものだったのか。足音はどこへ消えたのか。妻も同じ音を聞いているのに。
エレベーターで会った住人も同じことを言った。「夜中に外国人が騒いでいるように聞こえる。でも翌朝には誰もいない」。 管理組合の掲示板には「夜間は静かに」「共有部での会話禁止」と多言語で書かれた紙が貼られている。だが、それを読んでいる人影を見た者はいない。むしろ、紙の隙間から笑い声が漏れているように感じる。
民泊の運営者は誠実に対応しているようだった。センサーを設置し、ハウスルールを多言語で掲示し、騒音への注意を繰り返していた。 それでも、夜になると声は続いた。誰も泊まっていないはずの夜にも、笑い声が響いた。キャリーケースの音が床を擦った。だが、翌朝には何も残っていない。
ある日、古くから住む住人がぽつりと漏らした。 「あの部屋、昔からおかしいんだよ。数年前、住民がそこで亡くなったんだ。事件じゃないって言われたけど、ずっと空き室だった。最近、安値で業者が買い取って民泊にしたんだ」
私たちはようやく理解した。夜ごとの笑い声は、民泊の宿泊者ではなかった。 あの部屋に残された「かつての住民」が、今も廊下を歩き続けているのだ。
呪文
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