6月10日は足利尊氏挙兵の日
ひょっとしたら『逃げ上手の若君』で、初めて足利尊氏に本格的に触れたという人も多いのでは?
それぐらい足利尊氏を題材にした作品はとても少なく、大河ドラマの出演歴は『太平記』の僅か1回のみです。
足利尊氏の扱いの少なさは、幕末から戦前にかけての皇国史観により『乱臣・逆賊』と見做されて研究すらタブー視されていた点が大きいかと思われます。
それこそ足利尊氏の肖像画として有名な『騎馬武者像』が、
「アレ? これ足利尊氏の家紋じゃないから別人じゃね?」
という調べれば簡単に分かる点すら見逃され続けていたぐらいに、足利尊氏は触れべからざる扱いだったのです。
で、実際に調べたら、実は家紋が江戸時代に加筆されていたモノだったことが判明。
将軍にしては落ち武者っぽい粗末な格好とされていた姿も、多々良浜の戦いの尊氏として伝わる姿に近いモノという意見も出てきて、やっぱりこの『騎馬武者像』は足利尊氏なのでは? と再び意見が逆転しつつあるのが現在の有力説です。
しかしその場合は元の絵の上にデカデカと書かれた二代将軍・足利義詮(尊氏の息子)の花押が、
「父の画像の上に子が自らの名を記すのはあまりにも不敬」
という問題点に直面してしまいます。
結局のところ誰なんでしょうね、この騎馬武者像。
足利尊氏は後年の扱いもさることながら、生前においても複雑な立場に悩まされる御家人でした。
源頼朝の血筋が途絶えてから足利家は清和源氏として特に高貴な血筋と見做されていましたが、尊氏はその次男坊。
母は父・貞氏の側室であり、本来の尊氏は家督とは無関係な立場の筈でした。
しかし長男の高義が21歳の若さで急死したことにより、父から後継者として指名。
北条一族の有力者から赤橋登子を正室に迎え、源氏棟梁としての立場を固めていきます。
1331年に父・貞氏が死去すると、名実ともに足利家の当主となりました。
しかし父の喪中に付している最中に、後醍醐天皇の挙兵という一大事が発生します。
討伐軍の大将として動員された尊氏(当時は『高氏』)の前に立ちはだかったのは、下赤坂状に籠城する楠木正成。
本来次男坊に過ぎない身でありながら家督を継承して幕府の言うがままに従軍している自分に対して、河内の一介の地侍でありながら天皇に馳せ参じて大軍勢相手に立ち回る楠木正成の姿勢に色々思うところがあったのは想像に難くありません。
この時は後醍醐天皇が呆気なく捕縛されてしまったため楠木正成は逃亡、その生死は掴めなくなります。
しかし、隠岐に流されていた後醍醐天皇は1年後に早くも脱出。
内部に協力者がいることは明白でした。
そして楠木正成はやはり生きており、瞬く間に勢力を拡大。
再び幕府の命で討伐軍司令官として派遣された尊氏でしたが、既に北条には得無しと考えていた可能性は高いです。
そして1333年6月10日(元弘3年/正慶2年4月27日)、丹波まで兵を進めていた尊氏は遂に反旗を翻しました。
同じく司令官であった名越高家が戦死したのを受けて、尊氏は直ちに諸将へ呼応を促す督促状を発布。
播磨国の赤松円心、近江国の佐々木道誉といった反幕府勢力を味方につけて京都に攻め込み、6月19日(元弘3年/正慶2年5月7日)に京都監視機関である六波羅探題を攻め滅ぼします。
鎌倉幕府の脅威が無くなったことで、後醍醐天皇は晴れて京都へ戻ることが可能になりました。
尊氏の反旗を受けて関東の新田義貞も挙兵して鎌倉に攻め込み、北条一門を滅ぼします。
その始まりから御家人同士が血で血を争う権力闘争を繰り広げてきた鎌倉幕府は、その御家人の手によって終焉の時を迎えることになりました。
後醍醐天皇を中心に武士・公家・僧侶など幅広い人材で構成された『建武の新政』が始まります。
なおこの時の鎌倉幕府滅亡の混乱の中を辛くも生き延びた幼い若君がいましたが、それはまた別のお話。
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