5月13日は武田信玄の命日
1572年(元亀3年)から始まった武田信玄による三河侵攻、通称『西上作戦』は文字通り圧倒的な戦闘力で次々と徳川家康の拠点を陥落させていきました。
一言坂での敗走、二俣城の降伏、そして三方ヶ原。
しかし家康の籠った浜松城は当時でも屈指の巨大な城郭であり(だからこそ江戸城が尚更ショボく見えたのかもしれません……)、信玄は東三河の攻略を優先したのですが――ここで唐突に武田軍の動きが鈍くなります。
そして1573年5月13日(元亀4年4月12日)。
病状の悪化に伴い軍を甲斐に引き返す三河街道上で、信玄は故郷の土を再び踏むことなく病死しました。
享年53。
信玄の死はあまりに家康&信長に都合が良すぎるタイミングのため、当時から暗殺説も囁かれています。
近年の研究では甲州における風土病である日本住血吸虫症の悪化が有力視されており、いずれにせよ信玄の死は「自分の死を3年隠せ」という遺言とは裏腹に呆気なく露呈します。
四男の勝頼が武田家を継ぐことになりますが、元々諏訪家を継いでいた勝頼の家督相続にはひと悶着が生じており、そのタイムラグは家康と信長にとって態勢を立て直す大きなチャンスとなりました。
信玄の死を知った織田信長の行動は迅速なものでした。
東側の脅威がひとまず薄れたことで、反信長勢力の各個撃破が可能となったのです。
7月18日に将軍・足利義昭を京都から追放。
8月2日に三好三人衆を討伐。
8月20日に朝倉氏を討伐。
9月1日に浅井氏を討伐。
11月頃に石山本願寺と和睦。
1570年(元亀元年)の浅井長政の裏切りを契機に発生した各地の『信長包囲網』は、信玄が病死した1573年の1年の間に呆気なく崩壊してしまいました。
8月25日(旧暦7月28日)、元号は『天正』に改元されます。
元号の改正を発案したのは信長であると言われています。
それは織田信長が名実ともに歴史の主役になったことを意味するものでした。
そして元号『天正』の20年間は、日本史上でも稀に見る大変革の時代として歴史に刻まれることになります。
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