チャッPちゃんが小説に挑戦(あきらめました)
せっかくなので冒頭だけ載せて供養します
『豚鼻プリマの調律日誌』
序文
世界は音でできている。
朝は鍋のふちで鳴る木べらの軽い調べ、昼は市場の呼び声が編む明るい和音、夜は家々の戸口からこぼれる湯気と笑い声の低い主音。誰もが指で机をとんとん叩き、足で道の石を二度踏み、暮らしのリズムを整える。ときおり音が途切れることがある。薄い紙片のような静けさが風にまぎれて差しこみ、言葉も火も鈍くなる。その切れ目を見つけ、結び直す術を、人は昔から調律と呼んだ。音は目に見えないが、ほどければ寒く、結べばあたたかい。
わたしたちは、ほどけた朝から話をはじめる。
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第1章 朝の停止と休符札の欠片
朝もやが畑の畝をまたぎ、屋根の霜がきらりとほどける。
――鳴かない。
プリマは足を止めた。いつもなら背後の小川がしゃらりと笑い、納屋の戸ががたんと応える。今日は、息だけが自分の耳に近い。鼻先の空気は冷たく、舌の上で音が薄い。彼女は首をかしげ、垂れた大きな耳をそっと揺らした。耳の先で、何か見えない膜が張っているみたいに、世界が一歩遠い。
「おはよう、プリマ。粉が軽くならないよ」
パン屋のセイナ婆さんが、戸口から粉まみれの手を振る。小麦は混ぜる音に乗ってふくらむのに、今日は鉢の中が重たく沈んでいる、と顔が言っている。
「わかった、ちょっと見るね」
プリマは笑って駆け寄る。十五の顔は陽の光をよく弾き、小さなピンクの鼻がぴょこんと前を向く。彼女は両手の指を軽く合わせ、心の中で“いつもの高さ”を探る。暮らしの底に流れる主音――耳で聴くというより、胸骨の内側で薄く鳴っている基準の感じ。そこに指先を合わせるのが調律の第一歩だ。
台所の床板に、紙片のようなものが貼りついていた。灰に似た色で、ふちがぎざぎざ。指で触れると、触れたところだけ、さらに静かになる。
「……いたずらだね、休符の札の欠片。これが近くにあると、音が息をひそめちゃうんだ」
初めて見る人にはただのゴミに見える。けれど近くの火は小さく揺れ、言葉はすこし遅れて舌から出る。札は音の流れに小さな穴をあける道具だ。昔から、風の強い季節に紛れこむ。
プリマは欠片をそっとはがし、手のひらにのせた。薄いのに、重さの向きだけが違う感じ――持ち上げると、周りの気配が一拍だけ後ろに下がる。
「ね、戻すよ」
セイナがこくりとうなずく。
プリマは戸口の柱に背を当て、靴のかかとで床の木目を一度踏む。タイミングを合わせる儀式みたいなものだ。胸の中で“いつもの高さ”をもう一度確かめ、息を短く吐く。
「四つ数えて入る。いくよ、せーの」
彼女は欠片を指で弾き、外の朝へ向けてすっと滑らせた。紙片は風に乗るでも落ちるでもなく、まるで薄い影が乾いて消えるみたいに、ふっと軽くなって――
かたん、と棚の陶器が小さく応えた。
次いで、川が戻る。しゃらり。軒の雀が一斉に肩をふるわせ、ちいと鳴いた。粉鉢の中で、固かった生地が“ふうっ”と息をつく。
「戻った!」
セイナが笑う。皺の間に粉がぱっとほどけて、笑い皺の線が深くなる。
「ありがとうねぇ。朝のパンが助かったよ」
「うん。……でも、欠片が一枚じゃない気がする」
プリマは鼻先で空気を嗅ぐ。戻った音の裏に、まだ薄い穴がいくつか、遠くで冷たく開いている気配。村の西側、馬小屋の方角が、とりわけ軽い。
「セイナ、ここは大丈夫。私は西を見てくる」
「気をつけておくれ。あんた、朝ごはんは?」
「帰りにパン一つ、借りるね。返すね!」
彼女は手を振り、道へ飛び出した。
石畳を踏む足が、ようやく自分の音を取り戻す。こん、こん、と小気味よく鳴る。プリマはその響きを胸の主音に合わせ、歩幅を少しだけ広げた。音と足並みが合うと、景色の輪郭がはっきりしてくる。
西の空はうす青く、牛舎の屋根に霜が残っている。柵の向こうで、牛たちがいつもよりおとなしい。口の草が、音のない水の中みたいにゆっくり動いている。
「おはよ、プリマ!」
小さな声が柵の下から飛んだ。近所の少年ルキだ。
「牛が鳴かないんだ。お父ちゃん、怒ってないのに怖い顔してる」
「怒ってないの、いいね。じゃあ直し放題だ」
「直し放題?」
「うん、やってみせる。見てて」
牛舎の影は冷たい。扉の釘のあたりに、また薄い灰色がこびりついていた。さっきよりも大きい。プリマはそっと距離を測る。断音は嫌いだ。音をむやみに切ると、戻るときに人の心が疲れるから。だから彼女は切らない。つなぎ直す。
「ここは、息でやるね」
彼女は扉にもたれ、掌を板にあて、ゆっくりと吐く。吐く息の温度に、胸の主音を少し混ぜるつもりで。吸うときに、戻ってくる音の重さをわずかに受け止める。札の欠片は、あたたかい息と一緒にほどけることがある――生活でついた小さな絡まりなら、これで足りる。
板がみしりと鳴った。
「……よし」
牛が鼻を鳴らし、尻尾をぱたぱた振る。少年が目を丸くする。
「ほんとだ! ねえ、プリマ、どうしてわかるの?」
「わかるというより、困ってる音が呼ぶんだ。困ってる人の声みたいにね。ね、ルキ、柵を三歩だけ叩いて。強すぎないやつ」
「こう?」
こん、こん、こん。少しぎこちないが、十分だ。音が道へ流れていく。
その先――風下――畑の角で、もう一枚がかすかに反射した。
「まだいる」
プリマは走る。垂れた耳が跳ね、髪が肩で弾む。
畑の角。杭の結び目に、小さな結い紐と一緒に、また薄い灰色。今度は細く折られて、誰かが意図して挟んだみたいに見える。
(風まかせじゃない? 置いていった?)
胸に小さな冷たさが降りる。休符は暮らしの隙間から自然に生まれることもあるが、まとめて持ち歩き、あちこちに差しこむ者がいるなら――それはただの悪戯じゃない。
プリマは欠片を外し、掌で温める。
「君、帰る場所は野原じゃない。ここでほどけておいで」
彼女はやわらかく指を開く。欠片は溶ける雪みたいに消えた。
遠くで、鐘の音が一つ。街区の門の見張りが、朝の交代を知らせる合図だ。今日はいつもより一瞬、遅れて聞こえた。それでも、鳴った。
プリマはほっと息をつく。
「よし、半分。……でも、置いてった手つきが、どうにも気に入らない」
門の方角に、細い影が一条。
誰かが、こちらを見ている。
風が変わり、土の匂いに、紙の乾いたにおいが混ざった。
プリマは踵を返す。
「追う。戻す。大丈夫」
自分に言い聞かせるように短くつぶやき、彼女は門へ向かった――物語の朝が、ふたたび歩きだすのを確かめながら。
呪文
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