羊は羊のままでいい
そう、私のような人間は嗅覚が発達している。魂の発する臭い。いにしえの武士は戦う力があったかもしれないが、残念ながら私にはこの能力だけしかない。私のような人間はこの能力を使って何をするか。心を殺すのである。さいわい、腐臭を放っている人間でも、そうそう人の命は取らない平和な時代である。誰か腐り切った言葉を吐く者が近寄ってきたら、それに素早く反応して心のスイッチを消すのだ。海流のわずかな淀みに反応し、触覚をしまい込む棘皮動物のように。そう、我々には心を殺すという選択肢がある。逃げもせず、戦いもせず、ただうずくまって心を抑圧する。嵐が過ぎ去るのを待つ。我々の得意技だ。魂の腐臭に侵されないための、唯一の防衛戦。心の防衛戦は得意だ。欺瞞と詐欺に満ちた社会という名の痛みに触れたとき、心を徐々に麻痺させる。感情の神経が痛みを伝えないように遮断する。こればかりは一等賞なんだ、私たちは。今ではもうすっかり心は鎧のような硬い皮膚を纏って、ちょっと優しく撫でられたくらいで何か感じたりしない。この鎧は私の、誇りだ。
しかしそうやって心を殺して、その代わりに何を得たのか? 心の内側の豊かなものは、もうすっかり使い尽くされて、みんな皮を硬くするのに使ってしまった。もう、鎧の中にあるのは空虚だ。何もない、ということがある。何かが欠乏しているのではなく、空という至純の精製物を作り上げることができたのだ。何者にも侵されない、真に純粋な中身が。そうやって内部に虚無を養い、私のような人間は何を得てきたのか? その結果どんな存在に成り果てたのか? ……おそらく、社会への復讐者になるのに、これほどの英才教育はないのだ……。ブラックホールも密閉すれば爆弾になるように、このような精神はきっと、社会を破壊するのに十分な威力へと育っているのだろう。だが今はいい。今は沈黙しておいてやろう。お前たち、お前たち社会が私を羊あつかいするのなら、そのままでいよう。狼になれる能力があっても、牙を隠していよう。羊は羊のままでいい。
呪文
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