ホロライブ漫画 スーツと嘘と、青いネクタイ
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季節は春へと移り変わろうとしていた。
リクルートスーツに身を包んだ私は、鏡の前でぎこちない笑顔を作ってみる。
「よし、大丈夫。私は天音かなたじゃない。ただの、就活生」
証明写真の撮影ブースで、カメラマンの「もう少し顎を引いて、自然に笑って」という指示に、思わず「はい、こんかなた~!」と返しそうになるのを必死で飲み込んだ。
履歴書の「職歴」欄は、見事なまでに空白だった。
6年間。それは私が「天音かなた」として生きた、かけがえのない時間。けれど、この紙の上では、私はただの「無職」だ。
「自己PR、どうしよう…」
『握力50キロを活かした、力仕事には自信があります!』
…いやいや、事務職希望でそれはまずい。
『以前、数万人規模のイベントを成功させた経験があります!』
…嘘ではないけど、詳細を聞かれたら一発アウトだ。
結局、「前職では、主にインターネットを通じた広報活動に従事しておりました。人々に情報を伝え、楽しんでもらうことにやりがいを感じていました」と、当たり障りのない言葉を並べた。嘘ではない。ギリギリ、嘘ではないはずだ。
何社かの面接を受けた。
結果は、芳しくなかった。
「この空白の6年間は、何をされていたのですか?」
どの面接官も、必ずそこを突いてくる。
「はい、えっと…少し体調を崩しておりまして、療養しながら、フリーランスで簡単なデータ入力の仕事などを…」
しどろもどろになりながら、用意していた「設定」を話す。心臓がバクバクと音を立てる。嘘をついているという罪悪感が、私を押しつぶそうとする。
「そうですか。まあ、ブランクは気になりますが…」
面接官の反応は冷ややかだった。社会の壁は、想像以上に厚くて高かった。
帰り道、公園のベンチに座り込み、ため息をついた。
「はぁ…やっぱり、厳しいなぁ」
空を見上げると、今日も青空が広がっている。あの空の向こうには、まだ私の仲間たちがいて、輝いているんだろうか。
「みんな、頑張ってるのかな…」
そして迎えた、あるIT企業の最終面接。
オフィスビルは新しく、エントランスはガラス張りで、いかにも「できる会社」という雰囲気が漂っている。
通された会議室には、初老の男性が一人、座っていた。人事部長の田中さん(仮名)だ。柔和な笑顔だが、その目は鋭く私を見定めているようだった。
志望動機、学生時代の経験、そして例の「空白の6年間」。
私は、これまでで一番落ち着いて、嘘ではない言葉を選びながら話した。
「…はい。特定の企業には属さず、個人で活動しておりました。具体的には申し上げにくいのですが、多くの人と関わり、言葉や表現を通じて、誰かの心を動かすような、そんな経験をしてきました」
田中さんは、私の目をじっと見て、静かに頷いた。
「なるほど。誰かの心を動かす、ですか。それは素晴らしい経験ですね」
圧迫面接のような雰囲気はなく、むしろ私の話を真剣に聞いてくれているようだった。少しだけ、肩の力が抜ける。
面接が終盤に差し掛かった頃、田中さんが不意に話題を変えた。
「ところで、あなたは休日は何をされていますか?」
「えっ? あ、はい。えっと…動画を見たり、音楽を聴いたり…あとは、歌うことも好きです」
これも嘘ではない。ただ、その規模が「ドームで数万人を前に歌う」だっただけだ。
田中さんは「ほう、歌ですか」と少し身を乗り出した。
「実は私もね、音楽が好きでしてね。特に、ここ数年は、あるジャンルにハマっていまして」
そう言って、田中さんは胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
「ちょっと失礼」
画面を操作し、私の方に向ける。
そこには、見覚えのあるキャラクターのキーホルダーが写っていた。
青い髪、天使の輪っか、そして、少し生意気そうな笑顔。
私の、グッズだ。
思考が停止した。時が止まった。
え? なんで? どうして、この人が?
田中さんは、少し照れくさそうに笑った。
「実は私、あなたの…いえ、『天音かなた』さんのファンでしてね。『へい民』なんです」
「えっ…!? うそ…!?」
思わず、素の声が出てしまった。慌てて口を押さえる。
「あ、いや、その、えっと…!」
田中さんは、そんな私の様子を見て、楽しそうに笑った。
「ははは、やっぱり。声を聞いて、もしかしたらと思っていたんですが、今のリアクションで確信しましたよ」
私は顔から火が出るほど恥ずかしくて、穴があったら入りたい気分だった。まさか、最終面接で、面接官が自分のファンだったなんて。
「あの、その…すみません、私、隠していて…」
「謝ることはありませんよ」
田中さんは、穏やかな口調で言った。
「あなたが『卒業』されたことは知っています。そして、新しい道を歩もうとしていることも。履歴書の空白期間も、そういうことだったんですね」
田中さんは、スマホの画面を愛おしそうに撫でた。
「私は、あなたの活動から、本当にたくさんの元気をもらいました。辛い時も、あなたの歌声や、何事にも全力でぶつかる姿に、何度も励まされましたよ。特に、あの握力測定の配信は、腹を抱えて笑いましたねぇ」
「あ、あれは…! その、お恥ずかしい限りで…!」
握力の話はやめて! と心の中で叫ぶ。
田中さんは、真剣な表情に戻った。
「あなたが6年間で培ってきた経験、努力、そして何より、人を惹きつけるその力は、決して無駄ではありません。それは、どんな仕事においても、強力な武器になるはずです」
そして、彼はまっすぐに私を見て言った。
「私は、天音かなたのファンとしてではなく、この会社の人事部長として、あなたという人間を評価したい。これまでの経験を、ぜひ当社で活かしてくれませんか?」
数日後、私の元に一通のメールが届いた。
件名は「採用内定のご通知」。
私は、そのメールを何度も読み返した。
夢じゃない。現実だ。
手が震える。誰かに伝えたい。真っ先に、この喜びを共有したい人の顔が浮かんだ。
私はスマートフォンの通話アプリを開き、登録名『ルーナ』をタップした。
数回のコールの後、聞き慣れた、甘えるような、でもどこか落ち着いた声が聞こえた。
『もしもし~? かなた、どうしたのら~?』
「あ、ルーナ…! 今、大丈夫?」
『んー、大丈夫なのらよ。たこ焼き食べてたところなのら』
相変わらずだなぁ、と少し頬が緩む。
私は息を整えて、告げた。
「あのね、内定…出たよ。就職、決まった」
一瞬の沈黙の後、電話の向こうで何かが倒れるような音がした。
『んなあああああ!? ほんとなのら!?』
「うん、本当。さっきメールが来て」
『すごいすごい! おめでとなのら~!! さすがかなたなのら!』
鼓膜に響くような歓声。自分のことのように喜んでくれるその声を聞いて、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。目頭が熱くなる。
「それでね、実は面白い話があって…」
私は、最終面接の担当者が私のファン、「へい民」だったことを話した。
ルーナは最初驚いていたが、すぐにケラケラと笑い出した。
『ぷっ…あははは! まさか面接官がへい民とは…運命なのらねぇ』
『隠そうとしても、かなたの「圧」と握力でバレバレだったんじゃないのら?』
「もう、そんなことないよ! …たぶん」
『ま、とにかくお祝いなのら! 今度、美味しいもの奢らせるのら』
「えっ、私が奢るの!?」
『当たり前なのら。初任給で回らないお寿司、期待してるのらよ?』
「はは…頑張って働くよ」
電話を切った後、私はベッドに大の字に寝転がった。
天井を見上げながら、スマートフォンの画面を胸に抱く。
ステージの上と、オフィスのデスク。
住む世界は変わってしまったけれど、こうして変わらずに「おめでとう」と言い合える関係がある。
それが何よりも嬉しかった。
「よしっ!」
私は起き上がり、窓を開けた。
春の匂いがする風が、部屋の中を吹き抜ける。
「行ってきます、ルーナ。行ってきます、みんな」
新しい職場、新しい生活。そして、へい民の上司。
不安はあるけれど、不思議と怖くはない。
私には、最強の同期という味方がついているのだから。
私は青空に向かって、小さくガッツポーズをした。
(完)
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