5月18日は小牧長久手の戦い最大の激戦日
賤ケ岳の戦いで柴田勝家を下した秀吉は名実ともに天下の第一人者となり、同時に織田家を露骨に冷遇するようになります。
秀吉の織田家の扱いが雑になった理由は様々な説が唱えられていますが、
「自分が仕えたのは信長サマであって織田家そのものに仕えた覚えはない」
ぐらいの認識だったのかもしれません。
当然、そんな露骨な態度をとられた織田家の現当主・織田信雄(信長の次男)は面白くありません。
信雄は同盟相手である家康(この時点でも『清州同盟』は有効でした)に協力を仰いで公然と秀吉に敵対を表明、具体的な軍事行動へと移ることになります。
織田家譜代だった筈の池田恒興が突如離反し、秀吉軍から共闘のため森長可(森蘭丸の兄)が派遣されましたが、事前に察知していた徳川軍の酒井忠次に撃退されます。
敵襲の心配がなくなった家康は満を持して小牧山城に布陣しますが、そこから秀吉軍との睨み合いが暫く続きました。
打開案として、池田恒興は戦場を迂回して家康の本拠・三河への奇襲を秀吉に提案。
しかしこの動きは家康に筒抜けでした。
家康と信雄の連合軍は行軍中の池田恒興・森長可と対峙。
時は1584年5月18日(天正12年4月9日)。
ここに、小牧・長久手の戦いにおける最大の激戦『長久手の戦い』が幕を開けました。
2時間余り続いた戦闘は、最前線でヒャッハーしていた(比喩でも何でもなく本当にヒャッハーしていました💦)森長可が討死したことで急変。
続いて池田恒興も討死、その長男の池田元助も討ち取られ、唯一生き残った池田輝政は家臣に促されて離脱しました。
秀吉も3万の本隊を率いて救援に向かっていましたが、本多忠勝率いる僅か500人の手勢に足止めされてしまい、前線部隊の壊滅には間に合いませんでした。
その後は再び膠着状態が続き、秀吉軍が織田方の城を攻めて家康を誘いだそうとするも応じなかったりと長期戦の様相を呈していきます。
6月中旬には秀吉軍として参戦した滝川一益が伊勢の蟹江城を陥として信雄と家康の分断を図るも織田徳川軍に逆襲されて失敗、結局秀吉は主だった戦線では二度も手痛い敗北を喫する形となってしまいました。
主戦線でこそ敗北を重ねた秀吉でしたが、各地の反秀吉勢力の鎮圧は着々と進んでいました。
北陸の佐々成政は家康に呼応して挙兵しますが前田利家に押し返され、翌年に秀吉自ら軍を率いた『富山の役』を招いて降伏を余儀なくされます。
この富山の役の際に金森長近は秀吉軍の先鋒として飛騨に侵攻、佐々成政の同盟者だった姉小路家を追放してそのまま飛騨に居座りました。
紀州の根来・雑賀衆による蜂起も失敗に終わり、大局的な視点では織田徳川方は不利になる一方。
11月になると信雄・家康とも止むなく秀吉と和議を結び、ひとまず両者の戦争は終わりました。
その後も水面下では睨み合いが続きます。
しかし家康側は戦費の増大で領国の荒廃が深刻化、さらに秀吉側も『天正大地震』によって大きな被害を受け、両者ともに戦争どころではなくなってしまいました。
信雄の仲介を受けて両者は1年近く交渉を重ね、1586年12月8日(天正14年10月27日)、家康は諸大名が集う大坂城の大広間にて『豊臣』秀吉への服従を表明することになります。
呪文
呪文を見るにはログイン・会員登録が必須です。