本日のランチ
店の引き戸を開けると、焼けただし醤油の香りが鼻へ飛び込んできた。
昨日は、蒸籠の湯気と薄葛あんの艶を眺めながら、ふっくらした海老しんじょを味わった。今日は一転、厨房から聞こえてくるのは、肉とごぼうが鉄板の上で弾ける力強い音である。
席へ着く間にも、粗挽きの黒胡椒が熱へ触れた香りが届く。
穏やかな出汁の翌日に、この刺激は悪くない。
運ばれてきた主皿には、焼き色をまとった薄切りの牛肉と、細長く切られた夏ごぼうが山のように盛られていた。
牛肉には、だし醤油を基調としたたれの艶がある。その表面には黒胡椒の粒が見え、青ねぎと白胡麻が茶色い皿へ明るさを添えている。
まずは牛肉を一枚取る。
薄切りだが、肉の折り重なりに厚みがある。
口へ入れると、表面の焼き目から香ばしさが立ち、続いて赤身の旨みと脂の甘みが広がった。
たれは甘すぎない。
醤油の濃さよりも、出汁の旨みが先に感じられる。そのため、肉へしっかり絡んでいながら、後味が重くなりすぎない。
そこへ黒胡椒が現れる。
最初から舌を刺すのではなく、牛肉の脂が広がった後を追うように香る。鼻へ抜ける刺激が肉の甘みを引き締め、次のひと口を誘った。
今度は夏ごぼうを合わせる。
細く切られたごぼうには、しゃきりとした歯ざわりが残っている。
柔らかく煮含めたごぼうとは違う。噛むたびに繊維が軽くほどけ、その奥から土を思わせる素朴な香りが出てくる。
牛肉の脂とだし醤油。
黒胡椒の刺激。
夏ごぼうの香り。
三つが口の中で重なると、この料理が単なる牛肉炒めではないことが分かる。
牛肉が満足感を作り、ごぼうが噛む時間を作る。そして黒胡椒が、味の流れを最後まで緩ませない。
白いご飯をひと口食べる。
これは予想どおり、よく進む。
肉に絡んだたれが米粒へ移り、噛んでいるうちにごぼうの香りが追いかけてくる。黒胡椒の刺激が残っているため、甘辛いたれでも口が重くならない。
牛丼のように、ご飯と肉を最初から一体にした料理ではない。
主皿の牛肉とごぼうを味わい、その後に白飯を口へ運ぶ。
その往復に、和定食らしい楽しさがある。
青ねぎもよい仕事をしている。
熱の入った牛肉とごぼうの中へ、生に近い青い香りが加わる。白胡麻は小さく弾け、たれの甘みへ香ばしさを重ねていた。
小鉢の青菜のおひたしには、淡い出汁が含まれている。
力強い主菜の合間に食べると、葉物のわずかな苦みと冷たさが、舌に残った脂と胡椒を静かに落ち着かせた。
胡瓜の浅漬けは、さらに明快である。
ぱりりとした音と水分が、夏ごぼうとは異なる歯ざわりを作る。
ごぼうは噛むほど香りを残し、胡瓜は噛んだ瞬間に口を洗う。
二つの食感が御膳の中で役割を分けている。
豆腐と三つ葉の澄まし汁を含む。
黒胡椒の刺激が残った舌へ、温かな出汁がゆっくり広がった。豆腐の柔らかさと三つ葉の香りが、主皿の力強さを受け止めている。
再び牛肉へ箸を伸ばす。
今度は、皿の底にある夏ごぼうを多めに取り、牛肉で巻くようにして口へ運んだ。
牛肉の柔らかさの中で、ごぼうが小気味よく折れる。
だし醤油をまとったごぼうには、肉の旨みも移っている。それでも土の香りは失われず、むしろ黒胡椒によって輪郭が強くなっていた。
昨日の枝豆と海老しんじょの薄葛あん御膳は、温かな出汁に包まれながら、小さな弾力や枝豆の歯ざわりを探す料理だった。
今日の御膳は反対である。
焼き目も、香りも、食感も、皿の上から積極的にこちらへ向かってくる。
しかし、ただ濃いだけの肉料理ではない。
夏ごぼうの香りが牛肉の脂に奥行きを作り、黒胡椒がだし醤油の甘辛さを締める。
力強さの中に、箸を疲れさせない工夫がある。
最後の一枚には、夏ごぼう、青ねぎ、白胡麻をまとめて載せた。
噛んだ瞬間、焼けた牛肉の香ばしさが立つ。
次にだし醤油の旨み、ごぼうの歯ざわりと香りが続き、最後に黒胡椒が鼻へ抜けた。
梅雨の湿度に押され、食欲が鈍りそうな日でも、この香りなら白いご飯へ手が伸びる。
牛肉の満足感を、夏ごぼうと黒胡椒で軽快に仕上げた、香りで食べさせる一膳だった。
【次回予告】
次回は「鱧と夏野菜の天ぷら 出汁おろし御膳」。
牛肉と黒胡椒の力強い焼き物から一転、淡い鱧と色鮮やかな夏野菜を軽い衣で揚げ、みずみずしい大根おろしと澄んだ出汁で仕上げる、六月最後の御膳を訪ねます。
田嶋達郎
呪文
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