【どうしてこうなった?】シドニー・オペラハウス
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オーストラリアのシンボル、シドニー・オペラハウス。
世界遺産にも登録されているあの優雅な帆の形は、人類の創造性の極致とも言われています。
でも、この建造物はとんでもない「デスマーチ」の産物だったのです。
まずはこの数字を見てください。
当初の予算: 約700万米ドル
実際の総工費: 1億200万米ドル(約15倍!)
完成予定: 1963年
実際に完成: 1973年(10年遅れ!)
予算1457%オーバー。普通の会社なら全員クビ、プロジェクトは即解散レベルの大炎上です。
美しい外観の裏には、政治家の野心、爆破された基礎、そして国を追われた天才建築家、人生を破壊された後任建築家の悲劇が詰まっています。
それでは、シドニー・オペラハウスの「どうしてこうなった?」を解説します。
1. 全ては「政治家の焦り」から始まった
事の発端は1950年代。
「シドニーには文化がない!」と嘆く指揮者グーセンスの提案に、一人の男が飛びつきました 。
当時の州首相、ジョゼフ・カールです。
元鉄道労働者の彼は、長く続いた政権のマンネリ打破と、自身の【政治的な遺産】作りに焦っていました 。
カール「俺が死ぬ前に、後世に残るすげぇ建物を建てるんだ!」
この【政治的な焦り】こそが、後の悲劇へと繋がります。
2. コンペ優勝は若手の無名建築家
1956年、世界中からデザインを募集するコンペが開催されました。
そこで選ばれたのは、デンマークの38歳、ヨーン・ウツソン。
しかし彼は、巨大プロジェクトの経験はゼロ。
しかも提出したのは設計図というより、ただの【概念のスケッチ】。
普通なら書類選考落ちが確実です。
しかし、審査員だった著名建築家エーロ・サーリネンが、落選箱から彼のスケッチを拾い上げ、「これこそが天才だ!」と叫んだことで、最終選考に復活して奇跡の優勝を果たしました。
こうして、【まだ誰も作り方を知らない形の建物】が採用されてしまったのです。
3. 設計図がないのに「とりあえず掘れ!」
ここから事態は悪化の一途をたどります。
1959年、首相のカールは選挙が怖くて仕方ありませんでした。
カール「政権が変わってプロジェクトを中止にされたら困る!」
これは切実な問題でした。
カールはこの時、癌で余命いくばくも無い状態でした。
プロジェクトの中止は彼を称える【政治的な遺産】の建造中止を意味します。
そこで彼が出した命令は、狂気の沙汰でした。
カール「図面はいいから、とにかく着工して既成事実を作れ」
ウツソン:「ちょ、待ってください!まだ屋根の重さも計算できてないんですよ!?」
カール:「知らん!掘れ!」
屋根の重さがわからないのに、それを支える基礎を作り始める。
これがオペラハウス建築に残る【原罪】となりました。
4. 完成した基礎を「ダイナマイト」で爆破
恐れていたことが起きました。
屋根のデザインが進むにつれ、「先に作った基礎では重すぎて支えられない」ことが判明したのです。
解決策は一つ。
「壊して作り直す」。
1963年。すでに予算が膨張していたため、この設計の失敗を市民の目から隠す必要がありました。
プロジェクトチームは、シドニー湾を通過するフェリーのエンジン音や自動車や路面電車など都市の喧噪がピークとなる早朝のラッシュアワーの時間帯に合わせて強度不足の柱を爆破して解体しました。
こうして見切り発車で建設を急いだために、数百万ドルの血税と労働力が、文字通り粉々に吹き飛びました。
誰もが頭を抱えた瞬間です。
そして、この秘密作戦は、近くを運航するフェリーにコンクリート片が着弾する事故により、結局は明るみに出てしまいました。
5. 奇跡の「オレンジの皮」理論
一方、最大の難関はあの特徴的な「シェルの屋根」でした。
あまりに形が複雑すぎて、当時のコンピュータでも構造計算ができなかったのです。「建設不可能」とまで言われました。
しかし数年の苦悩の末、子どもがオレンジの皮を剝いているのを見てウツソンは閃きます。
「すべての屋根を、一つの巨大な球体の表面から切り出せばいいのでは?」
バラバラに見える屋根の曲率を一つの巨大な球体から切り出す事で統一する。
これで、現場でのコンクリート打設ではなく、型枠による工場での大量生産(プレキャストコンクリートの利用)が可能になったのです。
不可能を可能にした天才の発想!
これにて一件落着……とはなりませんでした。
6. 天才の追放と国外逃亡
プロジェクトの最大の庇護者だったジョゼフ・カール首相は1959年10月に死去し、
1965年には労働党が選挙に負けて、政権交代が起きます。
新政権は予算が膨張するシドニーオペラハウスを政治的な道具として利用しました。
プロジェクトリーダーのウツソンの立場は急激に不安定になりました。
特に新しく担当大臣になったヒューズは、芸術よりもコストカットの鬼でした。
ヒューズ:「金がかかりすぎだ! 模型の金も出さん! 給料も止めるぞ!」
ウツソン:「実験用の模型もなしでどうやって作るんだ!」
政府から報酬の支払いを拒絶され、ウツソンはとうとうスタッフへの給与も支払えなくなりました。
ウツソンは、1966年、「辞任する」と脅しをかけますが、大臣は待ってましたとばかりに「OK、さようなら」と即答しました。
事実上の解任です。
ウツソンは、プロジェクトの中核である自分が辞任すると言えば、さすがに政府も折れると思っていたのでしょう。ヒューズは、ウツソンにプレッシャーをかけて、辞任を言い出す事を待っていたのです。
こうして、ウツソンは失意のうちにオーストラリアを去り、二度とこの地を踏むことはありませんでした 。
7. 誰も触れたくない炎上プロジェクト
ウツソンが去った後、誰がこのプロジェクトを引き継ぐのか?
世界中の建築家が「ウツソンへの裏切りになる」と拒否する中、地元の若手建築家ピーター・ホールが手を挙げました 。
彼は「誰かが完成させなければ、ウツソンの夢がゴミになる」という使命感で引き受けました。
ところが、世間からは「裏切り者」「才能がない」とボロクソに叩かれました 。
ホールはプロジェクトを引き継いだけれど、オペラハウスを利用するABC(放送局)と政府から内装の要件を変更されたり、ウツソンが残した設計資料が現実的では無いなど炎上プロジェクトあるあるを経験することになりました。
様々な困難を乗り越えて、なんとか形にしても世間からのバッシングは強く、ウツソン支持派からは「オペラハウスを台無しにした男」と非難される始末。
彼らはオペラハウスを軽蔑的に「ホールズ・ホール」と呼びました。
こうしてピーター・ホールもまた、シドニーオペラハウスにキャリアと人生を破壊された一人になりました。
ピーター・ホールは、このプロジェクトで受けた苦しみからアルコール依存症に陥りました。
1995年5月
ピーター・ホールは脳卒中を発症し、64歳で亡くなりました。
彼の業績は死後に評価されました。
2006年6月
ピーター・ホールは、ニューサウスウェールズ州オーストラリア王立建築家協会により
シドニーオペラハウスの完成に貢献した功績が認められ表彰されました。
8. 招かれざる設計者
1973年、ついにシドニー・オペラハウスは完成しました。
エリザベス女王を招いて派手な開館式が行われました。
しかし、設計者ウツソンの名前が呼ばれることは一度もありませんでした。
招待状すら届いていなかったとも言われています。
生みの親を無視して、世界はシドニーオペラハウスの美しさだけに熱狂したのです。
9. 遅すぎた和解と栄光
時は流れ、1999年。
ようやくオーストラリア政府は過去の過ちを認め、ウツソンに和解の手紙を送りました。
「戻ってきてくれないか?」
高齢のウツソンは渡豪こそできませんでしたが、これを受け入れ、改修デザインの指針【ウツソン・デザイン・プリンシプル】を作成しました。
そしてウツソンは、2003年に建築界のノーベル賞と呼ばれる「プリツカー賞」を受賞 。
2007年には、シドニーオペラハウスは世界遺産に認定されました。
建築家が生きている間に自分の作品が世界遺産になるという、史上2例目の快挙を成し遂げました。
※1例目はオスカー・ニーマイヤーによるブラジリア(都市)。
2008年、ウツソンは90歳でこの世を去りました。
彼は結局、完成したオペラハウスを一度も自分の目で見ることなく生涯を終えたのです。
【おまけ】どうやって15倍の建設費を払ったの?
これだけの予算超過(700万米ドル→1億200万米ドル)、普通の税金なら暴動が起きます。
実は、建設費のほとんどは「宝くじ」で賄われました。
「オペラハウス宝くじ」という州予算とは別の「影の予算」があったからこそ、いくらコストが膨らんでもプロジェクトは止まらなかったのです。
このジョゼフ・カール首相の周到さは見習いたいですね!
シドニーに行く機会があれば、白い帆を見上げて思い出してください。
ここには、「どうしてこうなった?」のドラマが詰まっていることを。
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