自作小説「想霊日和」第九話『神を忘れた村その2』
正面には皮膚と目のない異形の想霊体。
背後には、真っ白な木の幹で形作られた、まるで人間を模したようなもう一体の想霊体。
その二体に挟まれた瞬間、空気は異様な密度を孕んで歪んだ。空間全体が、まるで生きているかのように、静かに、しかし確実に、彼らを閉じ込める檻へと変わっていく。
神崎詩音が振り向いた、その瞬間だった。
背後の白い木の想霊体の掌が、まるで撫でるようにそっと神崎の頬に触れた。
たったそれだけの接触。
なのに次の瞬間、神崎の全身がぱらぱらと――枯葉へと変わった。
どこか色を失った古びた葉が、彼女の輪郭を保ちながら宙に浮かび、そして――風に煽られて散った。
静かに、地面に広がっていくその残骸を、誰もすぐには理解できなかった。
「……所長?」
凛の喉が、ようやく言葉を紡ごうとしたとき、詠士が動いた。
体を引き、間を取る。直感が彼に警告していた。
「凛さん!」
その叫びが、皮膚のない想霊体を動かす引き金となった。
目のない顔で詠士を“見る”。音を辿って、襲いかかる。
詠士は右手にシャボン液を垂らし、すかさず多数のシャボン玉を放った。
想霊体が、滞空するシャボンに触れる。ダメージはないに等しい。
しかし、その度に「パチンッ」と割れるシャボンの音に想霊体が反応する。
時間稼ぎにしかならない。頼りない作戦。
だがその間にも、背後の木の想霊体の右手が、凛に向けて伸びていた。
凛の足がすくむ。思考が止まりかける。
凛は静かに真っ白な想霊体の手を眺めるしかできなかった。
詠士は走った。理屈ではなく、本能のままに。
「凛!!」
その叫びとともに凛を突き飛ばし、彼自身の身体がその手に触れられる。
詠士の体は、まるで脆く、乾いた土の上に落ちた葉のように――崩れ、変化した。
無数の枯葉となって舞い、散り、地面に堆積する。
凛は喉の奥で詠士の名を呼びかけかけ、なんとか飲み込んだ。
深い絶望が逆に思考を蘇らせる。
(いま叫んだら、死ぬ)
涙が出そうになるのを、まばたきでごまかした。
冷静になれ。見ろ。見ろ。
想霊体は――木のそれは、足が根を張っている。動きは遅い。
皮膚のないそれはシャボン玉に気を取られているが、長くはもたない。
詠士が助けてくれた。自分の身を挺して。
自分がやるべきは情報を持ち帰ること。
凛は深く息を吸い、細く吐く。
音を立てず、気配を殺し、想霊体から目を離さないように、静かに、静かに――後退する。
(夜になれば、視力に頼る私は圧倒的に不利だ。いま、いま村から出なければ)
足元の枯葉が、かさり、と鳴った瞬間、凛は全身を緊張で固めた。
が、気づかれた様子はない。まだ間に合う。まだ“帰れる”。
――そのときだった。
ぱちん。
静寂を切り裂くような、小さな音。
ぱちん。
ぱちん。
凛の背筋に、氷の針が刺さったような感覚が走る。
そして。
シャボンの....音が止んだ。
想霊体が、全てのシャボンを割ったのだ。
最後の音とともに、気配が濃くなる。
ぬるりとした何かが動き出す気配。
粘膜のような肉が軋むような、湿った摩擦音。
(……急げ)
凛は歯を食いしばり、速度を上げた。
“あれ”が追いつく前に、村を出なければ。
村の端まであと少し。
そのときだった。
ジ……ジジ……ジィ……ジィィィ……
近くの木で、突然蝉が鳴きはじめた。
夕闇の静寂を引き裂くような、甲高い声。
びちゃっ
音が、跳ねた。
想霊体の“顔”が、その方向を向く。
次の瞬間、肉の塊が地を這うような音とともに、一気に木の幹へと突進した。
ずしゃあっ
硬質な音とともに、木の幹が大きく抉られ、蝉の声が止む。
凛は、息を飲んだ。
嫌な音が、こちらに近づいてくる。
ぬちゅ……ぬちゅ……と、濡れた肉が地面を引きずる音。鼻腔を刺激する匂い。
(……気づいていない、まだ……)
鼓動が喉までせり上がってくるのを、力で押し戻す。
吐く息すら、音にならないように、喉の奥で殺す。
凛は、そろり……そろりと後退を続けた。
(あと少し……境界まで……)
木々の陰が濃くなる。空が黒く染まり、視界が閉ざされていく。
ようやく、村の境界線を跨いだ時――
そこに、車のヘッドライトが照らす光があった。
世界の外の、灯りだった。
⸻
「凛さん、大丈夫ですか?……お一人ですか?」
山道の出口、車のライトに照らされた中で、運転手が静かに尋ねてきた。
現実に戻ってきた感覚が襲う。今までが夢であったように。
凛は何も言わず、ただ小さく頷いた。
その姿を見て、運転手はドアを開き、優しく手で後部座席を示す。促されるように、凛はふらりと車に乗り込んだ。
扉が閉まる音。
山の闇がその背後で、ずるりと飲み込むように閉じていった。
車内の冷房の風が、凛の肌を撫でた。けれど、その冷たさが気持ちよく感じられることはなかった。
後部座席で膝を抱えるようにうずくまる。車が動き出しても、外を眺めることはなかった。
闇が揺れる。森の匂いとともに、夜の静寂が車の外から忍び寄る。
その静けさの中に――凛は、今日見たものを繰り返し思い出す。
所長・神崎詩音。月岡詠士。
目の前で、想霊体に触れられ、落ち葉となって崩れた二人。
声も出せず、名を呼ぶことすらできなかった、自分だけが“無事だった”現実。
「……今日は一旦帰りましょう。事務所まで、お送りします」
運転手がそっと声をかける。
「……ありがとう……ございます」
蚊の鳴くような声で、凛はそう答えた。
会話は、そこで終わった。
車の窓の外を、街の風景が少しずつ取り戻されていく。
虫の声は遠のき、代わりにビルの光と車の音が押し寄せてくる。
この街は、何事もなかったかのように回り続けている――たとえ、どれだけ多くのものを失っても。
「……凛さん、着きましたよ」
運転手の声で、凛はわずかに体を起こした。
「……ありがとう」
ドアに手をかけ、開こうとしたその瞬間。
「……凛さん……」
声が、静かに呼び止めた。
ドアにかけた指が止まる。
心が、再び時間を思い出す。
「三日後に――想霊体を対処する作戦が始まります。次回は調査ではありません。対処です」
凛の瞳が、かすかに揺れる。
けれど、その奥に、一筋の光が宿っていた。
「……凛さんが、良ければ」
「――行きます」
凛は、運転手の方へゆっくりと顔を向けた。
その目は、恐怖の影を湛えながらも、確かに“決意”を映していた。
「やります。……私が」
車を降り、事務所の扉の前に立つ。
鍵を差し込み、ゆっくりと開ける。
人のいない部屋に、蛍光灯の白い灯りが広がった。
そこから三日間、想霊相談所の灯りが消えることはなかった。
カーテンの隙間から漏れる白い光が、夜の街に染み込む。昼も夜も関係なく、机の上には資料が積まれ、凛の手は止まることなく動いていた。
誰にも会わず、誰とも口を利かず、ただ黙々と――あの日、二人が想霊体に触れられたあの瞬間を、繰り返し繰り返し思い出しながら。
「詠士……所長……」
その名を口にすれば崩れてしまいそうなほど、ぎりぎりの集中。
だがそれでも、彼女は灯りを絶やさなかった。
そして、三日目の朝。
相談所のビルの前に、一台の黒塗りの車が止まった。
静かにドアが開き、スーツ姿の男が降りてくる。
「凛さん。お迎えにあがりました」
「……ありがとうございます」
凛は短く返事をして、階段を下りてくる。
いつものオーバーサイズのジャンパーに身を包み、その影は三日前より少し細くなっていた。
けれどその背に漂う気配は、確かに違っていた。
その肩の後ろ――
ずしり、と床を鳴らすような音。
音の主は、白い巨体。
凛の後ろに立っていたのは、ふさふさの毛皮に覆われた、着ぐるみのように大きな“シロクマさん”だった。
頭には愛嬌ある丸い耳、口は小さく、だが目だけが鋭く光っている。
その巨体は軽々と天井に届きそうなほど。
運転手が目を見開くが、驚きの言葉は発しない。
「こいつが“秘密兵器”ってわけですか……?」
「ええ。無敵のね」
凛は、静かに微笑む。
「二人の代わりに暴れるくらいのことは、やってみせますよ」
運転手は目を伏せ、小さく頷いた。
「では、参りましょう。作戦開始です」
黒塗りの車のドアが開かれる。
その中へ、凛と“シロクマさん”が詰め込まれていゆく。
空はまだ朝の青を残していたが、その奥には確かに、夜の匂いが漂っていた。
呪文
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