3月23日は屋島の戦いで那須与一が扇の的を射抜いた日
屋島の戦いは行軍から平家の屋島放棄まで数日間に及ぶ合戦なので「合戦の日がいつ」なのか明確にしにくいですが、特に有名な那須与一の逸話の日(1185年3月23日)に絞ります。
源平合戦を語る際には多くの場合、一ノ谷が終わったら屋島 → 壇ノ浦で平家滅亡! とスピード展開だったりしますが、一ノ谷(1184年)と屋島(1185年)の間に1年のブランクがある点に注意です。
この1年のスパンに関して良く語られる逸話として、
「頼朝への確認を取らずに検非違使に任命された点を咎められて平家攻めから外された」
とされていますが、近年の見解は異なります。
一ノ谷の戦い後の平家はゲリラ作戦を展開して幾度も京都を脅かしており、京都守護の任である検非違使に義経が任命されたこと自体は特に問題にはされていないという意見です。
実際に『三日平氏の乱』という大規模な反乱が伊賀・伊勢両国で発生しており、京都の治安維持のために強力な武将が朝廷と貴族から必要とされていました。
義経が京都守護の任についている間に遠征軍の総大将として赴いたのは義経の兄の範頼でした。
しかし元々瀬戸内海に広く展開していた平家は海上戦を得意としており、遠征軍を手こずらせます。
兵糧が尽きて戦意の低下を察した義経は自ら電撃戦に名乗りを上げます。
嵐の中で船を走らせて阿波国勝浦へ上陸、現地戦力を撃破しながら夜通しで屋島まで行軍。
しかし一ノ谷とは違い平家も当初は奇襲に翻弄されましたが直ぐに立て直して膠着状態に。
翌日夕刻、海上の平家方から女官が乗った小舟が現れます。
立て掛けられた竿の先には扇が取り付けられており、「これを射てるかな?」という挑発でした。
そこで白羽の矢が立ったのが那須与一でした。
矢は見事に扇の柄を射抜き、扇は空を舞い上がります。
敵味方問わず全ての将兵が那須与一の腕前を讃えました。
上記の逸話から日本屈指のスナイパーとして絶大な知名度を誇る那須与一ですが、実はそれ以外の活躍の実績が殆ど残っていません。
公的な歴史書である『吾妻鏡』には名前が無く『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物で活躍が誇張されている点から、活躍を脚色された伝説上の存在であるという見方も強いです。
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